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アンドレ・クレージュ

静岡県のテーラー新屋のダイスケです

 

先日、お客様よりクレージュ・オムの生地でのご注文をいただきました

オリーブ色のポーラーの生地は、風通しがよくこれからの季節によく合うなと思います

 

 

そこで、今回はクレージュについて書いてみたいと思います

 

アンドレ・クレージュは1923年、スペイン国境に近いバクス地方に生まれました

 

1933年イタリア生まれのエマニュエル・ウンガロとは年齢は10歳ちがい、生まれたところもかなり隔たっていますが、この2人の有名デザイナーには非常に近似した特長があります

 

その一つが名門高級衣装店のバレンシヤガ店で仕事をしていたことです

もう一つがパリでデザインの技術を習得し、パリで有名になり、パリで金を儲けたにもかかわらず、いつまでもパリになじめず、パリという大都会から抜け出したがっていることです

※ウンガロのことは次のブログで書きたいと思います

 

さて、1961年にクレージュは独立して自身の店を開きました

この独立のための第一回コレクションが、パリの観客だけでなく世界のファッション界に衝撃を与えました

 

というのも、モデルの第一条件であるスレンダーな女性という常識に反抗して、彼が新しいデザインの作品を着せてステージに登場させたモデルは、すべてふくよかで健康そのものの体形の女性たちばかりだったからです

 

そしてまた、そのデザインも機能的な要素を徹底的に重視した構造が完璧に造詣されたものだったからでした

それは、それまでのパリのクチュール界の伝統であったエレガンス路線を完全に否定する、パリにおいてはまったく画期的な発想になるファッションの考え方でした

 

クレージュはその後連続して、白だけで構成されたコレクションや、常識やぶりの工業用ジッパーの特性を前面に押し出したコレクションなど、機能的未来派路線での革命的なエレガンスの発見と創造を続けさまに発表しました

 

 

しかし、クレージュの名前を世界に印象づけたのは、なんと言っても、ミニスカートのデザインでした

 

クレージュが31歳で独立してから四年たった1965年のことです

ロンドンのマリー・クワントがストリートファッションとして発表したミニスカートをもっとシックに造形した「ミニ・ルック」というものです

 

この画期的なデザインはたちまち世界のファッションジャーナリズムの注目するところになり、クレージュ旋風と呼ばれるほどに、彼のミニスカートのデザインに話題は集中しました

 

しかしながら、そんな画期的な成功を収めても、彼はすぐにクチュールの仕事をロシアル香水会社に売却して引退し、ごくわずかの特定の顧客だけの服をつくるという仕事に戻ってしまいました

 

そして1967年までの二年間新しいデザインを発表することはありませんでした

 

結果として彼は非常に賢明な作戦を採ったということになりました

それは、ミニスカートの嵐が吹き荒れ、どんな新鮮なアイディアを提示してもだれもが刺激どころか、印象にとどめることもできなかったからです

 

 

しかし、1967年のカムバック第一回のコレクションではシースルーのドレス、宇宙飛行士のようなスペース・ルック、薄手の生地と巧みなカットを組み合わせたヌード・ルックなど、すべてが独創そのものの画期的デザインはかりで、じつに新鮮な衝撃をまた新たに世界のファッション界に投げかけたのでした

 

この新しいファッションは世界の流行の話題を一手に集めましたが、これだけのファッション界の流行児となり、その名前が世界のマスコミに大々的に取り上げられているにもかかわらず、アンドレ・クレージュの提携によるデザイナーズブランドは、同程度の知名度を持つデザイナーに比べるとごく僅かしかみられません

 

というのも、クレージュいわく

 

「なんでもかんでもというライセンスのやり方は反対、それは物を高く売るために消費者を騙すことだから。ライセンスはクチュール関連商品に限るべき、と考えている。家具やチョコレートはわたしの専門外。どうしてなにもわからない物に責任が持てるのだろうか」

 

という理由があるからです

 

以降70年代からは、以前のような挑戦的なタッチがますます減少してきて、その分より柔らかくエレガンスが増加してきました

 

80年代にはクチュール・メゾンの呼称を失いますが、90年代になるとクレージュのブランドとしての建て直しが始まり現在に至っています

 

 

静岡県のテーラー新屋は、クレージュの生地を、フランスっぽく、大きなカーブを使い柔らかな印象のスーツになるよう仕立てれたらよいなと思います

 

 

 


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