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ユーベル・ド・ジバンシィ

静岡県のテーラー新屋のダイスケです

先日、お客様のお連れの方から最近の口紅は唇のpHによって色味が変わるという話を聞いてパーソナルカラー診断が必要なくなる日も近いのではないかと感じました

その口紅がジバンシィのものだったそうなので、せっかくなので今回はジバンシィについて書いてみようと思います

ユーベル・ド・ジバンシィは1927年にボーヴェに生まれました

ジバンシィが美術学校で学んでいた17歳のとき、彼がそれまでずっと憧れ続けていたバレンシヤガにデザインスケッチを見せようとパリに出てきました

しかし、機会を与えられず、たまたま彼の才能を認めたジャック・ファットの見せにデザイナーとして就職しました

その後、ピゲ、ルロンといった高級婦人衣装のデザイナーを経て、有名なスキャパレリのメゾンの主任デザイナーに就きました

ジバンシィは、このメゾンで働いていた期間が一番長く、丸4年間働きました

後年、このスキャパレリの店の経験を回想して、彼は次のように語っています

私の若い頃からの夢は、バレンシヤガ氏のそばで仕事をすることだったのですが、友人の紹介でマダム・スキャパレリのところで働くことになったのです 

だが、ここで本当のエレガンスを見つけたのです 

そこはまた、真にエレガントな女性に出会ったところでもありました 

マダム・ギネス、ウィンザー公夫人などをはじめ、当時もっともエレガントだったフランスやイタリアの貴婦人たちに会うことができたのです 

これは私にとってすばらしい思い出です 

そして、4年後には私自身のメゾンをもつことになったのです 

残念ながらマダム・スキャパレリは私の独立に不満だったので、私たちは冷たく別れざるをえませんでした 

それでも、私は彼女を敬愛していましたし、彼女のそばで働いたことを大きな喜びと思っていました

1952年、25歳のとき彼がパリのデザイン界で一番尊敬していたバレンシヤガの近くに自身の店を開きました

当時の評価は、バレンシヤガの落ち着いたエレガンスに影響を受けた、同じような作風のコレクションを創作するデザイナーというのがごく一般的な評価でした

このバレンシヤガの死後、同類のきわめて洗練されたこのクチュールがますます完熟していき、パリのファッション業界がプレタポルテ(高級既製服)路線を強化するのと逆行するような形で、そのクチュール性が世界的に評価され、受け入れられるようになっていきました

ついには、1978年にはデ・ドール(金の指貫)賞が贈られました

この賞はパリの伝統的でもっともエレガントなコレクションに贈られるもので、それはそのままジバンシィが80年代のクチュール界に文字通り君臨することを意味していました

※ピエールカルダンはその翌年の1979年に受賞しています

ジバンシィは、洋服をデザインする出発点について、こう語っています

作品の出発点は布地

作品をつくるときには、まず最初の出発点で、布地のことを考えます 

布の重さ、柄、布の生かし方、動き方をみます 

布地は生命を持っているので、布地のいわゆる落ち方がもっとも良い形にいくように務めます 

好きな布というのは特にありません 

しかし、他の布地よりも扱い易い布地というのはあります 

それとは逆に、扱いにくい布を使って、今まで表現されなかった美しいなにかを創ろうとすることが私は好きなのです 

苦労したあとに表現された美しさ、私にとってその喜びはなにものにもかえがたいものです

と、デザインの秘密を打ち明けるジバンシィは一方で

10年前まで、クチュリエがすべきでないことまでやっている人もいます 

その点について、自分が監督でき認めることができ、試すことができ、自分の名前がついても誇りにできるようなものを作れるのなら、ライセンスを引き受けてもいい 

と批判しています

活躍については、オードリー主演映画「麗しのサブリナ」の一部の衣装を担当したり、 メンズウェアライン「GENTLEMAN GIVENCHY」を発表したりなど…詳しい内容はウィキペディアや他のブログを参考にしてください

静岡県のテーラー新屋は、ジバンシィの香水の香りが好きです


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